今週もあわあわしているうちにもう金曜。
忙しさもあいまってここ最近以前実行していた決め毎ができていない。それは事前のしっかりとしたスケジューリングと整理整頓。
予定は目の前にやることがありすぎて、〆切が迫るものをひたすらやる、という状態になっている。これは後々大きなミスにつながりかねないのでしっかりと時間を取ってやりたいと思います。
そして整理整頓。「部屋の乱れは心の乱れ」を座右の銘に掲げていますが、今や机の上にものが散乱したまま事務所を飛び出して終電に飛び乗ったり、資料をきちんと整理せずにファイルに投げ込んでしまったり。こういうことが一番効率良くなくて仕事を増やすとわかっていてもやってしまう。
またカークーンの販売においてもやるべき課題は山積。もっとわかりやすく、丁寧に製品の魅力を伝えなければな、と思う次第。
仕事は素早く丁寧に。お客様に対しては安心と信頼をしっかりと供給できるようにどんどんとサービス改善。を目標に来週は仕事に励みたいと思います。
それでは皆さん、よい週末を!
2013/07/19
新聞掲載のお知らせ
本日19日発行の日経MJにカークーンが紹介されました。
朝早くから多くのお問い合わせの電話を頂いて今日の掲載を知ったのですが、思いのほか記事が大きく載っていてびっくりしました。
電話が混み合ってしまいお問い合わせ頂いた方々には大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ございません。
商品に興味を持ってくださったり、記事を見てご注文を頂いたり、嬉しい事も多かったのですが、同時にまだまだ改善すべき点、新たにやらなければいけない事も沢山でてきて喜び以上に「もっとしっかりしないと」という大きな責任を感じています。
しかしながら忙しい中でも気持ちを切らさずに、出会う人全てに尊敬の念をしっかりと表現していきたい。
そして遠くイギリスにいるカークーンの作り手たちの思いが日本に届くよう、精一杯これからも頑張ります。
それではみなさんよい週末を!
朝早くから多くのお問い合わせの電話を頂いて今日の掲載を知ったのですが、思いのほか記事が大きく載っていてびっくりしました。
電話が混み合ってしまいお問い合わせ頂いた方々には大変ご迷惑をおかけしました。申し訳ございません。
商品に興味を持ってくださったり、記事を見てご注文を頂いたり、嬉しい事も多かったのですが、同時にまだまだ改善すべき点、新たにやらなければいけない事も沢山でてきて喜び以上に「もっとしっかりしないと」という大きな責任を感じています。
しかしながら忙しい中でも気持ちを切らさずに、出会う人全てに尊敬の念をしっかりと表現していきたい。
そして遠くイギリスにいるカークーンの作り手たちの思いが日本に届くよう、精一杯これからも頑張ります。
それではみなさんよい週末を!
時刻:
7:38 PM
2013/07/17
MINIとカークーン
マットを下に敷いて |
上からカバーを被せて膨らませる! |
さて、昨日は愛知県小牧市にありますMINIの専門店キングスロードさんにお邪魔してきました。
まず到着して驚くのが敷地内に所狭しと置かれているMINIの数!店舗にあるのもまだ一部というから驚きです。そして代表の後藤さんはじめ皆さん本当にMINIが好きでその情熱と愛情に感動しました。
そのキングスロードさんで、現在アウトドアカークーンの展示をしてもらっています。サイズはMINIのサイズよりかなり大きいサイズ(470×200cm)ですがMINIにぴったりのサイズもありますのでご安心を。お店にはMINIのユーザーさんが多く来店されるということなのでぜひご来店された方は見てさわって体験してみてください。
それとこのキングスロードさん、MINIはもちろんのこと、MINIを生んだ国イギリスも大好きでイギリスに関する雑貨なんかも多く扱っているキングスロードデポというお店もやっておられます。私もお邪魔してイギリスの話をあれこれさせてもらいました。イギリスは今の時期が気温も街の雰囲気も特に好きです。
やっぱり仕事するのに情熱や愛情が一番基本にあるって素晴らしいことだと思うし、一番大事なことだろうなぁ、と今回訪問して感じました。ありがとうございました!
2013/07/07
伝播する
皆様に喜ばれることかはさておき、今月からいろいろな方々へDMを積極的に送りまくっている。今日もせこせこ宛名作りをしていた。
確固たる信念、と何度も言ってはいるものの「本当に自分のやっている事は正しいのだろうか」という疑問は常につきまとい、葛藤する。
そもそも「作り手の愛情のこもった製品を広めたい」というモットーは「それだけ愛情をかけているなら売れないことはあるまい」という根拠の無い自信、直感から来ている。自ら売ろう、とするときは私もその業界に精通していないので実際その商品が売れるかの予測は難しく、自分なりにあれこれリサーチをかけたり販売戦略なるものを練るのだけど、結局そうやっても最後は作り手の愛情の大きさとコミュニケーションを取った中で「この人の為に人生の一部を捧げることができるか」そして「その思いを受け止めてくれるか」というところに帰結するのでは、と感じている。
製品に欠陥があって売れないなら直せばいいじゃないか。そうやって自ら製品を売るだけでなく育てていきたい。
そんな事を考えながらせっせとDMの発送作業をしているのだけど、このDMも1個1個丁寧に作っています。なぜならここで適当にやってしまったらお客様はもとよりメーカーの気持ちを裏切ってしまうような気がするから。生産者の情熱を2倍、3倍にしてお客様に届けるのが仕事なのに自分の適当さのせいでそれが届かなくなってしまうのは許されない。
一方で一生懸命作ったDMに反応されず無下に捨てられるのはやはり寂しい。勝手に送りつけてるうえに全ての人に必要とされる商品では無いので仕様がないのだけれども。
そういう時は冷静になって一度考える。自分に不誠実な部分が無かったか、ちゃんと尊敬と至誠を持って接したか、と。そして最後にはやはり生産者の熱意を信じた自分と、善意は伝播するの法則を信じるわけです。
明日もDM。少しでもカークーンが知られるように地道に宣伝していきます。
確固たる信念、と何度も言ってはいるものの「本当に自分のやっている事は正しいのだろうか」という疑問は常につきまとい、葛藤する。
そもそも「作り手の愛情のこもった製品を広めたい」というモットーは「それだけ愛情をかけているなら売れないことはあるまい」という根拠の無い自信、直感から来ている。自ら売ろう、とするときは私もその業界に精通していないので実際その商品が売れるかの予測は難しく、自分なりにあれこれリサーチをかけたり販売戦略なるものを練るのだけど、結局そうやっても最後は作り手の愛情の大きさとコミュニケーションを取った中で「この人の為に人生の一部を捧げることができるか」そして「その思いを受け止めてくれるか」というところに帰結するのでは、と感じている。
製品に欠陥があって売れないなら直せばいいじゃないか。そうやって自ら製品を売るだけでなく育てていきたい。
そんな事を考えながらせっせとDMの発送作業をしているのだけど、このDMも1個1個丁寧に作っています。なぜならここで適当にやってしまったらお客様はもとよりメーカーの気持ちを裏切ってしまうような気がするから。生産者の情熱を2倍、3倍にしてお客様に届けるのが仕事なのに自分の適当さのせいでそれが届かなくなってしまうのは許されない。
一方で一生懸命作ったDMに反応されず無下に捨てられるのはやはり寂しい。勝手に送りつけてるうえに全ての人に必要とされる商品では無いので仕様がないのだけれども。
そういう時は冷静になって一度考える。自分に不誠実な部分が無かったか、ちゃんと尊敬と至誠を持って接したか、と。そして最後にはやはり生産者の熱意を信じた自分と、善意は伝播するの法則を信じるわけです。
明日もDM。少しでもカークーンが知られるように地道に宣伝していきます。
2013/07/01
稲森さんと西田さんとフィロソフィ
今日は法務局に会社の登記申請をしてきました。これからは株式会社クフウとしてカークーンをはじめ様々な素晴らしい製品を世の中に紹介していきたいと思いますので宜しくお願い申し上げます。
今日の移動中には京セラ、DDIの創業者であり、日本が誇る偉大な経営者である稲森和夫さんの本を読んであれこれと考えました。
稲森さんと言えば有名なのが“フィロソフィ”。「私欲を肥やすでなく利他の精神を持って商売しないといけない」といったような非常に倫理的で素晴らしい哲学を持って実践してこられた。
稲森さんの名前は知っていたけど本や言葉をちゃんと読み聞いたことはないし、正直私も「そんなきれいごとばっかり言っても現実はそう上手くいかないんじゃないか」という思いもあり、特別興味を引くことは無かったのです。加えて稲森さんの宗教に関する発言が苦手でした。
しかし、そうは言っても自分で考え、事業をやっていると辛いことや不安なことは当然ある。不安なことがあると決断力が鈍る。決断力が鈍るとあれやこれや見境無く手を出してしまい、外から一貫性が無くはちぐはぐな印象を与える。一貫性がなければ継続はできない。でも事業の成功には我慢や継続は不可欠…
と、失敗のどつぼにハマっていく。その負の連鎖を何とか止めたい、不安を取り除き、芯を持たなければ、と考えたときに初めて利益ではなく自らの良心を見つめ直し世の中のために働こうと考えたのです。どうせ失敗するなら自分が正しいと思ったことをやろう、と。
しかしこの時点ではまだ稲森さんの言葉は私には響かない。理屈屋な自分は全て自分で納得しないと行動できない。まだ「良心とは何ぞや。世のためとは何ぞや」という疑問が残るから。
そこで悩んでる時に手にしたのが日本哲学界の大家、西田幾多郎さんの「善の研究」でした。そこでは善という掴みどころのない言葉をしっかりと捉え、善に従って生きる重要性が説かれていました。
この「善の研究」、実は二十歳過ぎくらいに一度手に取ってはいるのだが内容がさっぱり理解できなかった本。今思えば人生の経験が足らず、西田さんが唱えた実存や経験の捉え方ができなかったのだと思う。しかし今はずごくよくわかる。ずっと感じて体にまとわりついてたもやもやした感情を説明してすっきりと落としてくれるような、まさに胸のすく思いでした。
そして「善の研究」はやはり最終的に神や宗教の必要性に帰結していきます。
ここでふと思い出したのが仏門にも入った稲森さんでした。そして初めて手に取ってちゃんと稲森さんの著作「生き方」を読みました。
やはり5年前に読んだとしたら理想ばかりの美言とやれ宇宙が云々の宗教話で読めなかったでしょう。ただ、今はすごくよく理解できる。自分の良心、善なるものを思いっきり信じて真剣に生きる。それを助けるのが哲学という信念であり宗教という信仰なのだと。
私もそうでしたが"宗教"や"信仰"という言葉に無条件に拒否反応が出る人はいるでしょう。そのことについて西田さんも稲森さんも違う切り口で反論していますが、要は「神や宗教を信じないこともひとつの信仰であり、等しく宗教である。一方で神を信じることで人は謙虚になる。謙虚さが無ければ成長は無い」ということになります(実際はもっと丁寧にその根拠が書かれています)
また「誰か」や「何か」を盲信することで理性や純粋さを失う不安も信仰をネガティブにする要素かもしれません。その点に関しては「善の研究」の最後にこう書かれています。
「我は神を知らず我ただ神を愛すまたはこれを信ずという者は、最も能く神を知り居る者である。」
つまり東洋思想では「神がなんだか知らない、けど神を信じる」という考えも成立する。逆に言えば神さえ信じていれば特定の何かや誰かに盲信する必要は一切ない、ということにもなります。(ちなみにここで西田さんのいう神は実体でなく世界であり、自分ですらある)
以上、色々信じることから宗教までざっくばらんに述べました。けど稲森さんも言っていますが今の私はただそれら重要性を「知ってる」にすぎません。これからはあれやこれや考えながら「経験」として学んでいこうと思います。
とにかく私もしっかり信念を持ち、そしてその信念を貫くために哲学を持って仕事に励みたいと思います。
今日の移動中には京セラ、DDIの創業者であり、日本が誇る偉大な経営者である稲森和夫さんの本を読んであれこれと考えました。
稲森さんと言えば有名なのが“フィロソフィ”。「私欲を肥やすでなく利他の精神を持って商売しないといけない」といったような非常に倫理的で素晴らしい哲学を持って実践してこられた。
稲森さんの名前は知っていたけど本や言葉をちゃんと読み聞いたことはないし、正直私も「そんなきれいごとばっかり言っても現実はそう上手くいかないんじゃないか」という思いもあり、特別興味を引くことは無かったのです。加えて稲森さんの宗教に関する発言が苦手でした。
しかし、そうは言っても自分で考え、事業をやっていると辛いことや不安なことは当然ある。不安なことがあると決断力が鈍る。決断力が鈍るとあれやこれや見境無く手を出してしまい、外から一貫性が無くはちぐはぐな印象を与える。一貫性がなければ継続はできない。でも事業の成功には我慢や継続は不可欠…
と、失敗のどつぼにハマっていく。その負の連鎖を何とか止めたい、不安を取り除き、芯を持たなければ、と考えたときに初めて利益ではなく自らの良心を見つめ直し世の中のために働こうと考えたのです。どうせ失敗するなら自分が正しいと思ったことをやろう、と。
しかしこの時点ではまだ稲森さんの言葉は私には響かない。理屈屋な自分は全て自分で納得しないと行動できない。まだ「良心とは何ぞや。世のためとは何ぞや」という疑問が残るから。
そこで悩んでる時に手にしたのが日本哲学界の大家、西田幾多郎さんの「善の研究」でした。そこでは善という掴みどころのない言葉をしっかりと捉え、善に従って生きる重要性が説かれていました。
この「善の研究」、実は二十歳過ぎくらいに一度手に取ってはいるのだが内容がさっぱり理解できなかった本。今思えば人生の経験が足らず、西田さんが唱えた実存や経験の捉え方ができなかったのだと思う。しかし今はずごくよくわかる。ずっと感じて体にまとわりついてたもやもやした感情を説明してすっきりと落としてくれるような、まさに胸のすく思いでした。
そして「善の研究」はやはり最終的に神や宗教の必要性に帰結していきます。
ここでふと思い出したのが仏門にも入った稲森さんでした。そして初めて手に取ってちゃんと稲森さんの著作「生き方」を読みました。
やはり5年前に読んだとしたら理想ばかりの美言とやれ宇宙が云々の宗教話で読めなかったでしょう。ただ、今はすごくよく理解できる。自分の良心、善なるものを思いっきり信じて真剣に生きる。それを助けるのが哲学という信念であり宗教という信仰なのだと。
私もそうでしたが"宗教"や"信仰"という言葉に無条件に拒否反応が出る人はいるでしょう。そのことについて西田さんも稲森さんも違う切り口で反論していますが、要は「神や宗教を信じないこともひとつの信仰であり、等しく宗教である。一方で神を信じることで人は謙虚になる。謙虚さが無ければ成長は無い」ということになります(実際はもっと丁寧にその根拠が書かれています)
また「誰か」や「何か」を盲信することで理性や純粋さを失う不安も信仰をネガティブにする要素かもしれません。その点に関しては「善の研究」の最後にこう書かれています。
「我は神を知らず我ただ神を愛すまたはこれを信ずという者は、最も能く神を知り居る者である。」
つまり東洋思想では「神がなんだか知らない、けど神を信じる」という考えも成立する。逆に言えば神さえ信じていれば特定の何かや誰かに盲信する必要は一切ない、ということにもなります。(ちなみにここで西田さんのいう神は実体でなく世界であり、自分ですらある)
以上、色々信じることから宗教までざっくばらんに述べました。けど稲森さんも言っていますが今の私はただそれら重要性を「知ってる」にすぎません。これからはあれやこれや考えながら「経験」として学んでいこうと思います。
とにかく私もしっかり信念を持ち、そしてその信念を貫くために哲学を持って仕事に励みたいと思います。
時刻:
9:50 PM